没後20年小倉朗室内楽作品展
第109回
作曲家小倉 朗(おぐら ろう、1916年1月19日 - 1990年8月26日)さんが亡くなって20年ということで、今秋王子ホールで室内楽作品によるコンサートが開かれます。
小倉朗さんもまた、簡単に忘れ去ることのできない存在と言えるでしょう。
「日本の耳」や「現代音楽を語る」といった岩波新書や他の著作群も支持者はかなりいらっしゃり、「日本の耳」にいたっては、この激しい絶版の時代に未だに現役で入手可能なくらいです。
これらの著作で小倉さんを御存知の方々も、その作品はあまり触れたことが無いと思われます。今秋の会は様々な編成の室内楽作品を聴くことができて、とても貴重な機会です。
これがきっかけになってより規模の大きな作品などもやられるといいと思いますが。
その会にお話、演奏その他で参加している高橋悠治さんが次のような文章を書いておられます。高橋さん御自身のサイトの保存文書にアップロードされているものを転載いたします。(平井洋)
//////////////////
小倉朗のこと 高橋悠治
今年は小倉朗没後20年で、10月18日に室内楽コンサートがある。
1948年頃だったか、團伊玖磨にハーモニーの基礎を習っていたとき、鎌倉由比ガ浜の貸間で、レッスンの日にも、先生はしごとで不在ということがよくあっ た。鍵もなく、だれもいない部屋に入って待ちながら、かってに押入をあけて積み重ねられた楽譜をながめていると、ドアがあいて、麦わら帽子の日焼けした人 が顔を出し、おや、こどもがいるな、と言ったのが、小倉朗との初対面だった。
数年後、小倉朗の『舞踊組曲』オーケストラ版初演の夜、その頃の習慣で、作曲家たちが日比谷でのコンサートの帰りに新橋の「鮒忠」の二階で飲みながら、聞 いたばかりの仲間の新作を論じ合い、小倉朗は自分のスコアを筒のように丸めてテーブルを叩いていた。帰りの電車は鎌倉までいっしょだった。年譜によると、 それは1954年の1月だった。柴田南雄に習っていた時だと思うが、まだ15歳の少年がなぜそんなところにいたのだろう。
さらに数年後、浜辺で向こうから歩いて来た麦わら帽子の小倉朗に出会って、作曲を習うことに決めた。ところが、かれはその頃海釣りに熱中していたので、ま ず習ったのは自転車の乗りかた、その後は夜の海岸に出て、魚はほとんど釣れず、帰り道の魚屋で魚を買って、かれの家で日本酒を飲む、そんな日々のなかで、 ベートーヴェンのスコアをピアノで弾くことを習い、オペラ『寝太』や、民謡によるオーケストラ曲、合唱曲などの書いたばかりのスコアを見せてもらい、現代音楽批判を聞かされ、作曲ができなくなってしまった。
その『寝太』の初演のために練習ピアノを弾いたのがきっかけで二期会に雇われて数年間オペラの練習や歌や合唱の伴奏をして生活し、また偶然から現代音楽の ピアニストになったので、後から考えれば、こうして逸れていった軌道は、作曲の生徒として順調に進むよりはまなぶことも多かった、その結果かれの音楽から も離れてしまったにしても。
小倉朗は1960年前後に、わらべ唄による合唱曲集をいくつか書いている。呼びかける言葉のリズムと抑揚が自然に唄に変わる時うまれる単純なメロディーを 重ねたり、ずらしたり、また音程をひろげたりせばめたりして色調を変化させているが、一つの響きのなかで停まっては、ページをめくるように別な響きに切り 替わる。区切られた色の平面を組み合わせた音楽の創りかたは、小倉朗が追求していたはずの古典的な構成への意志とはちがう、もっと直感的な、瞬間と色彩へ のこだわりに見える。かれが批判していたストラヴィンスキーの『春の祭典』や『パラード』のサティのキュビズムに近い。後年のオーケストラ曲のなかにある ような長い旋律線は、じつは限定された音と音程の多様な変容で紡がれ、持続する低音につなぎとめられている。リズムにのってうごくかたちを映してゆれる音 楽の表面と、それを織り上げる古典的な技法は、その底に半透明な層になってひろがる響きの持続に包まれている。ドミナントは音楽家の心だ、と小倉朗は言っ た。だが、かれの音楽のドミナントは、古典的なドミナント、解決に向かって音楽をうごかす劇的な物語をもったドミナントというよりは、それぞれの場面を彩 る中心的色調としてのドミナントのようにきこえる。
1937年の『ピアノ・ソナチネ』では、ほぼ同時代のフランス新古典主義の音楽に近い感覚的な音楽だった。その後ドイツ古典の模写をしてオグラームスとか らかわれた時代の作品はほとんど破棄されているから、知ることもできないが、1953年に書かれた『舞踊組曲』は、バルトークに触発されたと言われてい る。それもアメリカに亡命した1940年代のバルトークの最後の時期で、戦時の空白による時差を考えれば、ほぼ同時代の音楽と言ってもいい。反前衛どころ か反時代のポーズをとっていた小倉朗は、やはり時代とともに歩んだのではないだろうか。時代のせいで遅い再出発ではあった。それに作品の数は多くはない。 細部までみがかれ、削られて、簡潔にしあげる、それは職人芸とも言えるが、わらべ唄のようにあそびへの没入が表面に現れてくるまで洗練するプロセスでも あったのだろうか。
その頃作曲家たちは貧乏だった。小倉朗の年譜には、生活に困窮する、ますます困窮する、というような記述が数年ごとに見られる。根っからの都会人で繊細な ひとだったが、べらんめえにふるまっていた。書けない、というのが口癖で、いかにも説得力のある口調でそれを言うので、弟子までがそういう気分になるほど だったが、古典的な意味での「主題」、詩の最初の一行のように、核になる音のうごきを見つけると、しごとは集中して速かった。本人は構成技法の修行の成果 と思っていたのだろうが、むしろ直感と瞬発力、ほとんど体力の問題とさえ言いたくなる。そういう創造の時が、『舞踊組曲』から70年代の終わりまでつづい た。1980年の『チェロ協奏曲』以後は、健康も衰えて、音楽を作曲するかわりに、絵をかくのに熱中し、個展をひらいたほどだったが、もう作曲はしなかっ た。絵はたのしみだったが、音楽にはあまりに真剣だったのかもしれないし、それよりもかれの音楽は身体と深いところでつながっていたのだろう。
20年がすぎて、小倉朗の音楽にまた出会うとき、時間に洗われて、いままで見えなかったなにかが見えてくるだろうか。それは加藤周一がかれの音楽に見たよ うな「形になった感情」かもしれないし、形や技法が消えた後の持続する響きかもしれない。生は苦しく、死もまた苦しい。音楽は、水面に射し込む光だったの か。記憶のなかの時間は年代記のような線ではなく、順序もない点が集まり、また散っていく。
///////////////////
瞬間の速度 持続する意志 飛び交う音を包む光の空気 「形になった感情」(加藤周一)
10月18日(月)19.00 銀座王子ホール
ー高橋悠治によるトーク「人・時代と作品」(高橋悠治)
ピアノのためのソナチネ (1937)
ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ (1960)
弦楽四重奏 ロ調 (1954)
2台のピアノのための舞踊組曲 (1953)
木下夕爾の詩による八つの歌 (1956)
フルート、ヴァイオリン、ピアノのためのコンポジション (1977, 86改訂)
演奏:高橋悠治(pno) 木野雅之(vln) 一戸敦(fl) 波多野睦美(ms) 水月恵美子(pno) 山本悠加・山本彩加(pno duo)
パシフィック・クァルテット・ヴィエナ(stq)
お問い合せ:小倉朗コンサート実行委員会 042-421-1809
チケット:https://www.ojihall.jp/form/ticket.html




