特集Scene

荒井英治無伴奏ヴァイオリンの夕べ

第288回

2014年9月17日

荒井英治無伴奏ヴァイオリンの夕べ

2014年9月19日(金) 19:00開演
東京 平河町 ロゴバ
(詳細は一番下のリンクご参照)

■ プログラム

1. エサ=ペッカ・サロネン:Lachen verlernt(2002)

2. 高橋悠治:慈善病院の白い病室で私が version A(1989)

3. クルターク・ジェルジュ:サイン、ゲーム、メッセージ(1987~2004)より
・半音階の言い争い
・カレンツァ・ジグ
・哀しみにくれて
・アンナ・ケラ-への挨拶状
・イン・ノミネ(ハンガリ-風)
・秋の妖精

--休憩--

4. 高橋悠治:「狂句逆転」(柴田南雄「歌仙一巻」no.59による)(2014)≪初演≫

5. ユン・イサン:コントラステ (1987)

ヴァイオリン:荒井英治

///////////////

プログラムノート  

1. エサ=ペッカ・サロネン:Lachen verlernt(2002)

エサ=ペッカ・サロネンは指揮者としてロンドンやストックホルム、ロス・アンジェルス のオ-ケストラと深く関わりをもってきた。指揮者としては最新のテクノロジ-に興味をもち、デジタル・メディアやソ-シャル・メディアを積極的に活用することで、オ-ケストラの存在を広く一般に普及すべきだと考えている。作曲についてはフランコ・ドナト-ニに学んでいる。
Lachen verlearnt は 《笑いを忘れた》 とでも訳すべきか。シェ-ンベルクの 《月に憑かれたピエロ》 Op.21の 第二部 第2曲 《ピエロへの祈り》 の詩句を題材にしている。

ピエロ!私は笑いを忘れてしまった!
輝かしい姿は消え失せた・・・消え失せた!
私のマストの上に旗は黒々とはためくピエロ!私は笑いを忘れてしまった!
おお もう一度とり戻してはくれまいか魂の獣医よ
抒情詩の雪だるまよ月の女神様よ
ピエロ!私は笑いを!
(柴田南雄 訳)

ヴァイオリンの19世紀的な名技性に表現力を求めながら、ク-ルな客観性の中に狂気がかいま見える世界を展開している。そして、作曲者の言葉をふたつ・・

・芸術とは「美によってカオスを支配すること」。その試みは絶えず進展するが、決して終局には至らない。
・「善い音楽の条件」を敢えて挙げるならば以下の二つ。第一に大衆の感情の奥底の流れを時代精神として表現できること、第二にル-ルを厳密に守りながらもそれを逸脱すること。

この曲はチョ-=リャン・リンに捧げられている。


2. 高橋悠治:慈善病院の白い病室で私が version A(1989)

ヴァイオリンとはいかなる楽器なのだろうか。高橋悠治の音楽に関わっていると、そう思いを巡らせることがある。弦楽器はもともと神のもとにある楽器ではなかった。中世ではロ-マ・カトリックの強い支配のもと、教会では長いこと締め出されていた。そこで許されていたのはオルガン、声、そして金管楽器だ。そもそも弦というのは羊の腸や、馬の尻尾を使うのだから、いわば権力に支配された低層階級や小民族の持ち物と見なされていたのだ。

ルネッサンスを経て、バロック期になりようやく市民権を得るようになり、また王侯貴族がチェロを弾くことを好むようになり、神の賛美へヴァイオリン群も加わることができたし、人を惑わす悪魔のようななまめかしくも怪しげな音色も嗜むことも許されることになったわけだ。しかしそれでもヴァイオリンは、かつての流浪の民とともにあったことにル-ツがあることに違いないだろうし、DNAは潜んでいるはずだ。

さてここでは、先程のサロネンのような人を圧倒させるような非日常的なヴィルトゥオジティは避けられる。といって作曲者が民族楽器として先祖帰りさせようとしているのでもない。
あるとき何か思いついたことを伝えるといった、心のよすがとして人の傍らに置かれている道具としての楽器に戻そうとしているかのようだ。

作曲者による解説を引用する

<<ブレヒトの最後の詩に想を得た。私のいないあとのツグミの歌をもことごとくよろこぶことが、という詩行から録音したツグミの歌を2オクタ-ブ下げて採譜することを思いついた。またイザイの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第5番「暁」が引用されている。この曲にはヴァイオリン、マリンバ、スティ-ルドラムの三つの版があり、ソロでもデュオ、トリオでも演奏ができる。>>

次に作曲者の《音楽の反方法論序説》に掲載されているこの曲のもとになったベルトルト・ブレヒトの訳詩と、作品に関連していると思われる部分を引用する。

慈善病院の白い病室でわたしが
夜明けにめざめたとき
つぐみをきいて、やっと
わかった。しばらく前から
もはや死の恐怖はなかった。なくなるものは
何もないのだ、わたし自身が
いなくなるだけだ。いまや
その後のつぐみの歌も
たのしいものになった。

と、ベルトルト・ブレヒトは書いた。
(中略)
さえずりがきこえているのは、きいているからではない。
きくことによってさえずりを創ることも、
それを止めることもできないが、さえずる世界は、それがきこえる、
あるいは、感じられる限り、ありつづける。
さえずりをきくのは、わたしではない。
わたしも耳も、きこえる世界に現れることはない。
わたしがいない、耳がない世界がさえずる、
あるいは、さえずりがさえずっているだけ、
さえずりがさえずりをきいているだけだ。
一瞬ごとに、それは過ぎてゆく。
そうでなければ、それはさえずりではない。
録音して、速度を落としてみれば、(中略)さえずりの一音は、数音からなる短いメロディーとなる。
鳥の時間は、人間の時間より速い、ということよりは、瞬間より短い時間に起こり、過ぎ去る変化はたとえ一音の音色としてであれ、きこえている、あるいは、瞬間以下の次元ではたらく注意が、さえずりをたえず更新している、と言える。
(後略)

イザイの「暁」からの引用がちりばめられているA。
ツグミの歌のB(13の歌の断片を無作為に選び弾く)。
分散和音によりながらもより自由で天衣無縫なフレ-ズをみせるC。
より狭い音域、狭い音程の中での左手のPizz.によるメロディーを歌うD。
A,C,Dが演奏者によって自由に選ばれ交錯するE。
Aの短縮された回帰であるF。
Bの回帰であるG。
以上が曲の構成である。

数住岸子と吉原すみれのために書かれ、初演されている。
ソロ・ヴァイオリンでの演奏=versionAは 今日が初めてである。


3. クルターク・ジェルジュ:サイン、ゲーム、メッセージ(1987~2004)より

クルタ-クの作品には個人への献呈がとても多い。友人への挨拶状として、あるいは亡くなった人への想い出に捧げたり、偉大な作曲家へのオマ-ジュもある。音楽の伝達について、個人から不特定多数に向けてではなく、むしろ個人から個人へ確かに伝わることを信じる表れであろう。そこでは人間の内面の言葉の届かない意識、無意識の広い領域を見つめようとする意思も感じられる。

当然、音は少なくなり、音程関係や休符に凝縮され、音の身振りに還元されていく。弱音のなまめかしいレガ-ト、反対に強音の粗暴なアタック、どちらも人間の本能を喚起せずにはおかない。

この曲集は ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスなどのソロのために、少しずつ書きためられ、また多くは何度も改変され、デュオやクァルテットなどの複数の楽器によるヴァ-ジョンもつくられている。

今日の演奏曲は

・半音階の言い争い
・カレンツァ・ジグ
・哀しみにくれて
・アンナ・ケラ-への挨拶状
・イン・ノミネ(ハンガリ-風)
・秋の妖精

しまいには音の響きの中に作曲者の個人的な痕跡など溶けてしまいたい、と願っているような音楽。 演奏者もそれに続きたい。


4. 高橋悠治:「狂句逆転」(柴田南雄「歌仙一巻」no.59による)(2014)≪初演≫

柴田純子(柴田南雄夫人)さんの依頼に応えて作曲された新作。柴田南雄が1978年晩秋から翌年初頭にかけて書いたヴァイオリンとピアノのための 歌仙一巻 《狂句こがらしの》 を変形しながら逆転した音楽。以下に作曲者の言葉を続ける。

<<芭蕉の歌仙《冬の日》の最後36句から逆行して第1発句と詞書にいたる。楽譜の1段は短句と長句の区別があり、17世紀フランスのクラヴサンのための前奏曲のスタイルで音の順序や延長と、音符のまとまりを示し、緩急や強弱の変化は演奏の場で創られる。ヴァイオリン奏法はハインリヒ・ビ-バ-の《パッサカリア》(1674)、最後の発句と詞書の音楽は、ラヴェルの『ツィガ-ヌ』(1924)を参照した。(後略)>>

記譜はすべてが全音符が不均等に並び、スラ-がかけられたり音を切るスタッカ-トや小さな区分を示すコンマが記されているだけで、至って簡素である。ほとんどは句一行が次の音楽の一節に対応するようになっている。なお冒頭の一節はいわば調弦と指馴らしの楽句に相当する。演奏者はバロック音楽の演奏の如く、なかば歌いなかば語るような演者といった役割。

逆転しているため、短句+長句 で一対になるので、次の一対との間合いは少し長めに演奏したい。音楽は俳句の情景描写ではないが、句とは付かず離れずの趣きであり、それには聴く、という意識をできるだけ拡散して鑑賞していただければと思う。聴き手を束縛するような音はここにはなく、空気に乗って通り過ぎていく響きを気に留めながら、各自の何ものにも囚われることのない時間を愉しむためにあると考えるからだ。

以下が36句及び詞書。

36.廊下は藤のかげつたふ也
35.綾ひとへ居湯に志賀の花漉て
34.けふはいもとのまゆかきにゆき
33.わがいのりあけがたの星孕むべく
32.箕に 鮗 の魚をいたゞき
31.うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに
30.巾に木槿をはさむ琵琶打
29.日東の李白が坊に月を見て
28.秋水一斗もりつくす夜ぞ
27.あはれさの謎にもとけし郭公
26.烏賊はゑびすの国のうらかた
25.しらじらと砕けしは人の骨か何
24.冬がれわけてひとり唐苣
23.笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨
22.しばし宗祇の名を付し水
21.ぬす人の記念の松の吹おれて
20.いまぞ恨の矢をはなつ声
19.のり物に簾透顔おぼろなる
18.蝶はむぐらにとばかり鼻かむ
17.二の尼に近衛の花のさかりきく
16.となりさかしき町に下り居る
15.たそかれを横にながむる月ほそし
14.霧にふね引人はちんばか
13.田中なるこまんが柳落るころ
12.あるじはひんにたえし虚家
11.影法のあかつきさむく火を燒て
10.きえぬそとばにすごすごとなく
9.いつはりのつらしと乳をしぼりすて
8.髮はやすまをしのぶ身のほど
7.わがいほは鷺にやどかすあたりにて
6.日のちりちりに野に米を苅
5.朝鮮のほそりすゝきのにほひなき
4.かしらの露をふるふあかむま
3.有明の主水に酒屋つくらせて
2.たそやとばしるかさの山茶花
1.狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉

笠は長途の雨にほころび、帋子はとまりとまりのあらしにもめたり。

侘びつくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。
むかし狂歌の才士、此国にたどりし事を、不図おもひ出て申し侍る。


5. ユン・イサン:コントラステ (1987)

ユン・イサンやショスタコ-ヴィチの音楽ほど、その人生のさまざまな境遇とともに語られ、政治や社会情勢との関連で論じられる作曲家はいないだろう。それは不幸なことだろうか?

なんのために他人が作曲したものを演奏するのか。それは、そういう形で他者に関わることで自分というものを探していく作業なのかもしれない。作曲者にとっても作曲した作品を通じて自分を見つめる鏡のような存在なのかもしれない。

では、伝達する手段としての音楽。何を伝達するのか、伝達すべきものはあるのか。聴いてしまえばあとに痕跡は残らない音楽。それをいいことに無自覚なまま無駄に音があふれかえっている現実。耳を澄ませて音を聴いてみよう・・・その音はどこからやってきているのか? ・・・自己と他者が関わる場を提供する音楽の意味を、そこに求めたい。

気安く音楽が手に入り、なんの抵抗もなく享受される日常・・その状況では音楽が何かを伝達する意味を持つことは難しい。作り出される消費。大量消費される商品としての音楽を目の前にして、何がどれだけ必要なのか、もはやそれすらも見えないだろう。

ユン・イサンの音ほど人間の声そのものであると感じることはない。音が血肉化されているといったらいいか。音は何かを探し求めずにはいられない。強靭なヴィブラ-トや夥しいトリル。急速で広い音域を駆け巡る。立ち止まらず、つねに変化し持続するエネルギ-に満ちている。

この曲もユンの他の作品同様、12音は対等、均等に扱わない。調性はないが、旋法的な匂いが残るのは一番刺々しい長7度や短9度という音程関係に対して慎重だからであろう。そして安定したゆったりしたテンポと拍子(第1曲では6拍子とたまに7拍子、第2曲では拍子感なしで素早く弾く部分と6拍子の部分の交代)。音型やリズムは音それじたいのエネルギ-に従い自由に変化するもので、身振りといったものに近い。

ためしにこの曲をピアノで弾いてみる。その際に(ヴィブラ-トは当然だが)トリルとポルタメントを取り去って弾いてみる。すると、これらの要素がいかに重要な意味を持つかを知る。

音の持続にともなうヴィブラ-ト、トリル、音程関係の結び付きを強固にするポルタメントなどは西洋音楽では表現の中では装飾的な扱いであるのは言うまでもない。

ユンにはピアノ独奏曲が極端に少ないのも充分な理由があるのかもしれない。

題名=《対照》とは、それにより、ものの本質を明らかにするためにある。 であるとして、はたしてこの曲ではかのソナタ形式のように、最後に止揚される結末を迎えることができたのだろうか。

私自身、これからはユン・イサンの音楽をもっと演奏していかなくてはいけないと考えている。

ウィルフリ-ト・リュスマンにより初演。(荒井英治)


https://sites.google.com/site/hirakawachomusics/2014_fall_28