特集Scene

ゴーストライターとして書かれたモーツァルトのレクイエム

第275回

2014年3月12日

先日、新日フィルと準・メルクルがモーツァルトのレクイエムを演奏しました。この曲は正にオーストリアの貴族フランツ・フォン・ヴァルゼック・シュトゥパッハ伯爵が「ゴーストライター」としてモーツァルトを起用し、同伯爵は自作としてご自身の指揮で、この作品の演奏までしたようです。

しかもモーツァルトは作曲中に亡くなりましたから、弟子の手が随分入ったものがシュトゥパッハ伯爵に完成楽譜として渡されています。ほとんどモーツァルト自身によって書かれ、ほんのちょっとだけ補筆されたならともかく、実際はその逆で、完全なモーツァルト自筆は冒頭の部分のみで他はモーツァルトの残したメモから類推したり、弟子の創作だったりといったところが繋ぎ合わされているわけです。

こうなると、後世の解釈もサマザマになり、「どこがどうで、だからこの楽譜がいい」という版の問題は無限に議論されますが、何にせよ決定的なことにはなりにくい話です。

もうしばらくすると東京都交響楽団がエリアフ・インバルと共に演奏するマーラーの交響曲第10番も似たような話です。確実にマーラーが書いた第1楽章のアダージョだけを演奏するバーンスタインや小澤征爾から、やる機会があれば必ずと言っていいほど全曲版にするインバルやハーディング、その全曲版の楽譜も数えきれないほどのバージョンがそれぞれ正当性を主張して作られています。

ベルクの歌劇「ルル」も作曲途中で亡くなり、弟子なり後世の人が補作して完成版を作ったという意味では同系でしょう。

それらとはちょっと違う話ですが、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲 第13番 変ロ長調作品130もすっきりしません。最終楽章フィナーレとして最初はベートーヴェンが大きなフーガ楽章を作ったのですが、結局ベートーヴェンはそれを独立した「大フーガ」という作品としてしまい、元の13番の最終楽章はもっとこぶりな曲を改めて作りました。

「大フーガ」が超名曲として名声が上がると、「本来のこれをフィナーレにして13番をやったほうがいいのでは」という考え方が当然出てきます。ですから、ある弦楽四重奏団がレコーディングとか、自分たちの主体的企画で全曲演奏会をやるときとかなどに、13番をどうやるかは悩ましい問題です。その結果、CDなどでフィナーレを両方演奏している盤などもあるくらいです。「自分たちは演奏のプロだから、どっちも全力でいい演奏をします。どっちがいいかはお聞きになる皆さんで選んでください」というわけです。これはこれで責任回避している匂いも出てきますから、どこまでいっても、スッキリではありませんね。

後世からすれば大作曲家の書いた聖典のようなものとしてまつり上げたくても、ちょっとスッキリしないこれらの作品です。大体は「色々なことはあるが、要するに大傑作なのだ。」としてあまり細かなことは突っ込まず、現在慣用的に一番聞かれる形で満足するのが普通でしょうか。

それをこだわって、学問的に楽譜の細部の正当性をチェックし続けるのも一つのあり方ですが、この「スッキリしない」こと自体が貴重なことと言えるでしょう。大作曲家の完成品として仰ぎ見るのではなく、生きたものとしてその作品を受容するのは最終的にはそれぞれの聴き手の役割です。それを専門家のように判断して見解を持つ必要はありませんが、どう受け入れるかは聴き手の主体性に委ねられるということです。

そういうことで言えば、きっちり書き上げられたものより、不明な点が多く有ったりするほうが仰ぎ見られにくいだけいいかもしれません。固定して仰ぎ見てしまったら、あとは権威を高める尻馬に乗るだけになってしまいます。

未完成の作品というのが、えてして魅力的なのも同様な理屈でしょう。仮に作曲家からすれば完成品でも完成品とは見ないくらいの根性が聴き手に有ったほうがいいかもしれません。もちろんそれは作曲者を尊重するということと同時に行われなければなりませんが。

と、いうわけでモーツアルトのレクイエムも、マーラーの10番も、ベートーベンの弦楽四重奏曲第13番も、ベルクのルルも、ブルックナーの9番も、シューベルトの未完成交響曲も、プッチーニのトゥーランドットも、スッキリしない中途半端な気持ちでお楽しみいただくとよろしいかと。(平井洋)